ブログを始めてから思ったこと。

伊藤計劃の映画レビューのモロパクリみたいになっている。

 

気づいてしまったがもう遅い。

どうせならなぞりきってゆけ。

 

というわけで当ブログは伊藤計劃の映画レビューの影響下にあります。

今後はそういう方向で突き抜けてゆきたい。

突き抜けたところで趣味でやってるわけだから好きに書きゃいいんだけども。

そこんとこよろしく。

「私はダニエル・ブレイク」観てきた

■私は社会保障番号ではない

あなたは、誰かを助ける、という事について考えたことはないだろうか。

たとえば友人でも家族でもない、赤の他人をだ。

 

俺は今まで人生で何度か、そういう事はあった。

駅の近くでけがをして倒れていたおじいさんに肩を貸し、救急車が来るまでおじいさんの頭を膝にのせていた。幸い大事には至らなかった。

 

でも、他人に根本から関わって助けるという事はとても難しい。

怪我をして障害を追っていたら、病気だったら、仕事もなく貧しかったら。

助けられるとすれば、それは行政の仕事になる。社会保障生活保護がそれにあたるだろう、でもその社会保障生活保護が全く機能していなかったら?その人が生活保護を受けられず、困窮するに任せる暮らしをしていたら?

 

その時、俺に何ができるだろうか?

あなたはどうだろう?

 

トーリー要約

大工のダニエル・ブレイクは、仕事中に心臓発作を起こして雇用支援手当を受けていた。だが、役所の担当者はダニエルに奇妙な質問をする。

腕は上げられますか?帽子を被ることはできますか?

ブレイクは言う「悪いのは心臓だ、腕は関係ない!」

しかし、役所はダニエルの雇用支援手当の打ち切りを決定する。

理由は「就労可能」しかし、仕事は医師に止められていてできない。

ダニエルは役所に電話をするが恐ろしく長く待たされる。

「サッカーの試合よりも長く待たされた」とブレイクは言う。

異議申し立てをしにダニエルは役所へ行くが、そこでも冷たくあしらわれる。そこでブレイクは子供を連れた一人の女性、ケイティに出会う。

彼女もブレイクと同様に、生活保護を受けることができなかったのだ。

ブレイクは、彼女の生活を助けようと手をさしのべる。

 

観に行く前、非常に重い内容の映画かと思った。

しかし、不思議な明るさがある映画だった。

それはひとえに、作品全体を覆うユーモアと優しさがあったからだ。

デイヴ・ジョーンズ演じるダニエル・ブレイクは、困難な状況であってもユーモアを忘れることはなく、常に自身を「ノーマル」に保つことを忘れない男だ。

作品全体を覆う優しさやユーモアは、ダニエル・ブレイクの優しさとユーモアだ。

だからこそ、この作品は暗く重苦しい「だけ」のものにはならなかったのだ

ブレイクの隣人「チャイナ」も、クレバーで明るい若者として演じられている。

ダニエルはケイティのトイレのパイプを修理し、窓をエアキャップで断熱し、自作の飾りつけを子供部屋に施す。ケイティが笑い、子供が笑い、ダニエルも笑う。

しかしその明るさは「ギリギリの一線」なのだ。

自らの尊厳を保つため、困窮の最中にあってどうにか笑って生きていくための、守るべき絶対厳守の防衛ラインなのだ。

 

 

明るく振舞うブレイク達とは対照的に、 役人たちはダニエル達を冷たくあしらい続ける(というか、民営化の影響で対応する人のほとんどが役人ではなく企業のアウトソーシングなのだが)受給手続きにはまず電話をしてください、そこでオペレーターにつながるまで恐ろしく長く待たされ、ようやくオペレータに繋がっても、今度は担当者からの折り返しの電話を待ってくださいと言われて通話が切れる。担当者からの電話はいくら待っても来ず、役所に行けば「担当者からの折り返し電話が先にありますのでそれを待ってください」と言われる。異議申し立ての書類はWEBから、だが長年大工仕事をしてきたブレイクはパソコンが使えない。ただただ時間だけが無意味に過ぎてゆく。

 

だが、ダニエルはそんな機能不全を起こした社会保障制度にNOをつきつける。

己の尊厳をなくさず、懐に携えたまま。

 

 

そうしている間にも、ダニエルとケイティに貧困は容赦なく襲い掛かる。

電気代の支払いがままならず、ダニエルは家具を売り払う。

パソコンを借りてどうにかWEBの書類にサインしようとするがうまくいかない。

ケイティは子供たちに食べさせるために自分の食事を抜く。

あまりの空腹に、ケイティはフード・バンクで貰った缶詰を開け、食べてしまう。

子供たちの服を買うために自分の生理用品は買わず、万引きに手を出す。

そして、子供の靴が壊れてしまった事をきっかけに、ケイティは体を売り始める。

ダニエルはどうにかケイティに娼婦を辞めるよう諭すが、ケイティは生活のためダニエルとの交友を断ち切ろうとする。

 

さて、ここまでであなたはどう思っただろうか。

ダニエル、ケイティは愚かだろうか。これは全て、彼らの不手際だけでこうなったのだろうか、これは果たして「自己責任」の一言で切り捨てるべきだろうか。

 

俺はその一言で切り捨てるべきではない、これは彼らのせいなどではないと思った。

あなたはどうだろう。

 

ケイティが体を売らずに済むようにするためには。

ダニエルが雇用支援手当を受け続けるには。

彼らを助けるにはどうしたら良かっただろうか。

 

制度が機能不全を起こした状態で、彼らを助けるには。

俺にはどうすればいいのかわからなかった。

 

 

だが一つだけは言える。

人間は何かの形で、誰かの役に立つことができる。

手を差し伸べることができる。

それが根本的な解決にならずとも、そのひと時だけでも助けることができるのだ。

 

ダニエルの、ケイティの尊厳は、俺やあなたの尊厳だ。

俺も、あなたも、見知らぬ誰かを助けることができるのだ。

 

ラ・ラ・ランド観てきた

■一瞬の追想、そのなかに真実はある。

たとえば「人生こうしていれば」とか考えることは誰にでもあると思う。

俺だって、そんな事を繰り返し考えながら生きている。

もちろん、それは考えただけで全くの無駄だ。

ああしていたら、こうしていれば、考えたところで意味はない。

「ああしていれば」という瞬間は既に過ぎ去り、過去になっているのだから。

 

だが、人間は過去を追想する、してしまう生き物なのだから。

 

別にああすればよかったこうすれば良かった、という俺個人の話をしたいわけではない。これからするのはあくまで映画の話、ラ・ラ・ランドの話だ。

 

トーリー要約

ハリウッド・スターに憧れるミアは、撮影所のスターバックスで働く傍ら、オーディションを受ける日々を送っていた。

でも結果は無残なもので、オーディションに落ち続ける毎日。

共同生活を送る役者志望の仲間から、パーティに行こうと誘われる。

仲間たちは言う。「誰かを探そう」「自らを成功に導いてくれる誰かを」

彼女たちは、業界関係者と恋仲になる事で成功の道を開こうとしていた。

しかし、パーティのさなか、ミアは途方にくれて独り呟く。

 

「そんな“誰か”を探してばかりいるの?」

「私は見知らぬ自分に出会いたい」

「いつか、誰かに見知らぬ私を見つけて欲しい」

 

一方、ジャズを愛するピアニストのセブは、ジャズの衰退を嘆いていた。

セブはレストランで、オーナーの選曲通りにピアノを弾く日々を送っていた。

しかし、彼はオーナーのいいつけを破り、フリージャズの演奏を始めてしまう。

その時、パーティを抜け出したミアは、レストランに通りかかる。

ミアの耳と心に、セブの旋律が響きわたる。

レストランに入ったミアは、一心不乱にピアノを弾くセブを目にする。

ミアとセブ、不揃いな両者はいつしか心を通わせ始める。

 

この映画はミュージカル映画だ。

俺もこの映画を観る前に散々予告を観たのだけれど、ミュージカル映画というもの自体実はあまり観たことがないというのが正直なところだった。

まともに観たのは中学の頃に「サウンド・オブミュージック」をちょっと観たくらい。

 

なので、ミュージカル映画をちゃんと観るのはこれが初めてだ。

圧巻だったのは序盤の高速道路のシーンだ。

一見単なる交通渋滞のシーンが、瞬時に劇場に代わる。

役者が車から飛び出し、車のボンネットや屋根に上って歌い踊り、ジャンプし、しまいには自転車で走り回り、トラックが開いて中からドラムが出現し、自らの野心を高らかに歌い上げる!これは映画史に残る新たな名シーンなんじゃないだろうか。

 

カメラが引いていくと、交通渋滞の車列は、パッと見200メートルくらいある事がわかり、その長い車列の全ての車の上で役者が踊っている事がわかる。

ほんの豆粒くらいの大きさなんだけど、確かにそれがわかるのだ。

ものすごく予算と人員を使った、壮大なモブ・シーンと言えるだろう。

 

ここで俺はスクリーンに釘付けになった。

ミュージカル映画がこんなに楽しいなんて全然知らなかった!という思いでいっぱいになった。

 

トーリーとしては、ミアとセブの恋物語が描かれるのだけど、この映画には二つのリアリティが存在する。

 

一つは、音楽が鳴って役者が歌い・踊っているときの世界。

もう一つは、役者が歌い・踊らずに普通にセリフをしゃべっているときの世界。

 

前者は「魔法の世界」で、後者は「映画内の現実の世界」だ。

 

前者の世界では願望が高らかに歌い上げられ、役者はその魔法の力によって物理的な制約を超える。空すら飛んでしまう!

その後、後者の世界が立ち現われ、ミアやセブにとっての挫折や経済問題などの「現実的な」問題が障害として立ちふさがることになる。ラ・ラ・ランドは、この二つのリアリティを用いる事によって物語に深みを与えているのだ。

※俺はミュージカル映画のことを一切知らないので、それがミュージカル映画というものなのかもしれない。もしもそうだったらそれは単に俺が無知なだけである。

 

物語の前半、ミアとセブが出会って恋に落ちるまでは「魔法の世界」がスクリーンを支配することになる。二人は事あるごとに歌い、踊り、空を飛び、恋に落ちる。

しかし物語の後半になると「魔法の世界」は姿を消し、ミアもセブも歌ったり踊ったりしなくなる。ミアは女優への道を諦め始め、セブは不安定な収入に悩み始める。

そして、前半を煌びやかに飾ったモブ・シーンはほとんど一切登場しなくなる。

 

映画内の現実の世界」がスクリーンを支配してゆく。

この表現方法に、俺は「おおっ」と驚いてしまった。

ミュージカル映画なのだから、音楽とモブシーンの力で二人をうまくゆかせる、という描き方もできたはずなのだ。この映画はあえてその方法を捨てているのだ。

「サウンドオブミュージック」ならそうではなかったかもしれない。

話が進むにつれ、二人の心は離れてゆく。

そして、ミアに一瞬のチャンスが舞い降りる。

そこで再びミアは歌う、前半の煌びやかなモブ・シーンとは全く違う方法で。

画面はミアを中心に真っ暗になり、ミアはただ静かに、ゆっくりと歌い始める。

ここでようやくスクリーンに「魔法の世界」が出現する。

ただし、あくまでもこの一瞬だけ。またリアリティの占有権は「映画内の現実の世界」に譲渡される。前半の爆発的な動的シーンの後に、静的なシーンを入れる事で前半と後半のメリハリをつけ、観客にミアの歌を聴かせるためにしたのだろうけど、この演出は成功していると言っていいのではないだろうか。

 

物語の終盤、二人は幸福になる。

二人とも思い描いた夢を実現し、幸福なはずなのだが、ミアとセブは一緒にいない。

 

そこで、「追想」が現れる。一瞬の閃光の炸裂とともに。

ありえたはずの未来、こうしていればこうなっていたのではないかという、甘く、そして寂寥に満ちた追想。スクリーンに再び「魔法の世界」が出現する。

 

「一瞬の追想」

それこそが、ラ・ラ・ランドという映画にかけられた魔法なのだ。

 人間は過去を追想する、してしまう生き物なのだから。

 

ラ・ラ・ランド、公開収量が迫っているのだけれど、是非映画館で見てほしい。

最後の一瞬はどうか、見逃さないでほしい。

ハードコア見てきました

公開以前から話題になっていた「ハードコア」を観てきました。

暖かめの気温で陽光が輝く昼間という事で、映画日和でした。

 

個人的に一番いい映画日和は雨のない曇り空だと思うのですが、まあそんなことはどうでもいいです。何しろ今日は「ハードコア」を観に行くのですから!

公開前から話題にはなっていたので、いつ公開するかヤキモキしていたのですが、気が付いたらやっていたので、すかさず観に行ったという次第。

 

監督はイリヤ・ナイシュラー。ロシア人。

映画知識のない俺には全く知らない監督でした。

パンフの情報を読んでみたところ、モスクワのバンドのフロントマンとの箏。

ミュージックビデオを自分で手掛けたりもしているそうで、今作はそのスキルをフル活用して撮影されたものです。

 

トーリー要約

研究所で独りの男が目覚めた。

名はヘンリー。

ここがどこなのか全くわからない、状況。

そこに一人の女が居た、名はエステル。ヘンリーの恋人のようだ。

エステルはヘンリーを覚醒させる、ヘンリーは両手両足を失っていた。

エステルは超高性能義手と義足をヘンリーに接続し、ヘンリーの「機能」を回復させていく、そこへ現れる謎の男エイカン。

エイカンはヘンリーに自分に従うよう言うが、エステルはヘンリーを連れて研究所を脱出する。しかし、ヘンリーとエステルにエイカンの傭兵が迫る。

エステルは傭兵に攫われてしまう。

エステルを取り戻すため、ヘンリーの戦いが始まる────

 

「ハードコア」は、従来のアクション映画とは全く違った作品です。

フレームには主人公「ヘンリー」の主観が、最初から最後まで映されます。

これは、GoProという超小型カメラを役者に装着することによって実現されているそうです。

 

 ところで世の中には「ファスト・パーソンシューティング」略して「FPS」というゲームのジャンルがあります。主人公の主観や手元の銃が画面上に表示され、主人公の主観で進行するゲーム。このゲームはジャンルとして大成功を収めています、その理由の一つはひとえに「没入感」にあると思います。

 

「ハードコア」は、まさにFPSのような没入間を観る者に与えます。

物語開始早々、主観でスタート。

この時点で観客に「いいな、これはこういう作品なんだ」と示すとともに、観客を主人公ヘンリーの視点とシンクロさせます。

この時点で俺のテンションゲージはMAXになりました。

「ここから一体どんなものを見せてくれるんだ!?」という期待感がはんぱなかったです。それからはスーパーアクションの連続でした、走る、殴る、蹴る、銃を撃つ、ナイフで刺す、ジャンプして車に飛び乗る!もう頭の中はからっぽで、スクリーンに釘付けになってしまいました。使用される武器も多種多様です。ハンドガン、アサルトライフル重機関銃火炎放射器、ナイフ、日本刀、ついでに敵が戦車を繰り出してきたりもします。ここらへんもまさにFPS的な持ち味と言えましょう。

 

本当に全く新しい映像体験、と言っていいと思います。

だって、まさかFPSをそのままポン、と映画にしようとした人、今までいましたか?

俺が知る限りでは居ません!「ありそうでなかった」そんな映画でもあります。

 

ちょっとネタバレになってしまうのですが、ヘンリー、実はサイボーグです。

彼は心臓に電池を埋め込まれていて、開始早々電池切れで死にかけます。

そこで、ヘンリーの助言者ジミーが現れるのですが、ジミーはこう言います。

 

「敵のサイボーグを倒して充電用のチャージポンプを奪ってこい」と。

 

いつ敵が来るかわからない状況の中、ヘンリーはジミーが提示した「ミッション」を否応なく遂行することになります。この映画、ミッションクリア型のシナリオが組み込まれていて、そこも大変にゲーム的だと思いました。

トーリーがミッションクリア型であるため、ストーリーはポンポンテンポよく進んでいくというのもこの映画の良さの一つです。全くダレるシーンがありません。

 

それから、俺はサイボーグが大好きなのですが、ストーリーの序盤でエステルがヘンリーに義手をアサインし(義手接続後、レーザー溶接でくっつける!)機械部分を人工皮膚で覆っていく様子はなかなかに燃えました。

これだよ、こういうのが好きなんだ俺は!と心から満足しておりました。

 

キャラクターもなかなかに魅力的です。

特にラスボスのエイカン。彼は超能力者です。

敵を浮遊させたり吹き飛ばしたりできます、理由?そんなものはいりません。

エイカンはラスボス、そして超能力者。それ以外に言うべきことがあるでしょうか?

でまあ、このエイカンがなんかすごく胡散臭いんですよ。

いちおうイケメンと言っていい顔立ちなのですが、発言から所作からゲームのラスボス臭がものすごくします。そして彼の目的は、世界征服です。

 

もう一度言いますね。世界征服です。

 

サイボーグ兵士をたっくさん作って俺様キングダムを築こうというやつです。

なんとも愛らしいではありませんか、これくらいシンプルでなくっちゃ。

 

それから、主人公の助言者であるジミーもいい味出してます。

 

物語の途中で突然現れて助言を与え、死ぬ。

その後何食わぬ顔でまた出現する謎の男です。

 

撃たれて死んで、火炎放射器であぶられて死んで、なんか死んで死んで死んでまた出てくる。ちなみになんでそうなってるのかはストーリー上で明かされます。

 

トーリーのテンポがとてもいいのでラストまでススッと観られる映画だと思うのですが、ラストのオチは必見です。

エンディング曲はイリヤ・ナイシュラーのバンドBitingElbowsの「For the kill」

※字幕内では「ブッ殺してやる」という名訳!

えー、大変ラストのオチとマッチしたいいセレクトだと思いました。

 

t.co

公開期間はそう長くないようなので、「ハードコア」を観に劇場へ!

俺の配点は100億点、絶対おすすめできる一作です!